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「いっそ死んだ方が楽なんじゃないか」要介護5の父を在宅介護した日々と、私を救った決断

「これがいつまで続くのだろう」

家族の介護を経験した人なら、一度は暗闘の中でそう考えたことがあるはずです。

私の父が倒れ、右半身麻痺と言語障害が残り「要介護5」として家に帰ってきたとき、私はまだ大学生でした。

最初は「生きて帰ってきてくれて嬉しい」という感情がありましたが、現実は残酷でした。大学とアルバイトの合間に毎日介護をし、お金はなく、家の空気は重く沈んでいく。

この記事は、綺麗事抜きの「私の在宅介護のリアル」です。

書くこと自体がしんどいテーマですが、同じような状況にいる誰かの「自分だけじゃないんだ」という安堵になればと思い、あえて全部さらけ出すことにしました。

この記事でわかること(すべて私の体験談です):

  • 父が突然倒れ、「要介護5」で帰ってきた日のこと
  • 限界を迎え「いっそ死んだ方が楽だ」と思った瞬間のこと
  • 「施設に入れれば?」と言われても選べなかった理由
  • 「母に任せて逃げ出したい」という本音と、逃げなかった理由
  • 大学を辞め、仕事を変えた「一つの決断」とその後の変化

目次

父が倒れた日——突然すべてが変わった

あの日のことは、今でもはっきり覚えています。

父が脳の病気で突然倒れたとき、病院に駆けつけた私が見たのは、意識がなく、まるで植物人間のような状態の父でした。

声をかけても返事はない。目は開いているのか閉じているのかも分からない。それまで普通に話して、普通に動いていた父が、まったくの別人になっていました。

入院は約4ヶ月に及びました。

その間、少しずつ意識は戻りましたが、右半身は完全に麻痺し、言葉もほとんど出なくなりました。診断は「要介護5」。日常生活のすべてに介助が必要な、最も重い介護度です。

当時はちょうどコロナ禍で、面会にも厳しい制限がありました。

限られた面会時間にベッドの横に立つと、父は私の顔を見て泣くんです。言葉は出ない。でも、左手だけは動くので、泣きながら必死に私の手を握ってくる。何を伝えたいのか、正確には分かりません。でも、「生きていてごめん」と「会えて嬉しい」が混ざったような、ぐちゃぐちゃの感情だけは確かに伝わってきました。

私は「大丈夫だよ」と言いながら、心の中では「大丈夫じゃない」と思っていました。


在宅介護が始まった日——「帰ってきて嬉しい」はすぐに消えた

約4ヶ月の入院を経て、父が家に帰ってきました。

正直に言うと、最初は嬉しかったんです。あの植物人間のような状態から回復し、少なくとも目の前にいてくれる。「ok」という一言だけは言えるようになっていて、それが途方もなく嬉しかった。家族がまたひとつ屋根の下にいる。それだけで十分だと、あの時は思っていました。

でも、その感情は長くは持ちませんでした。

在宅介護が始まって1〜2ヶ月。現実が急速に重くなっていきました。

父は寝たきりで、ベッドの頭を上げた状態で一日を過ごします。食事、排泄、体位変換、すべてに人の手が必要です。

介護をするのは母と私の二人だけ。朝起きてから大学に行くまでの1〜2時間、帰ってきてからの1〜2時間。それが毎日、毎日続くのです。

自分の時間なんてものは蒸発しました。

大学の授業は出たり出なかったり。アルバイトの前後も介護。友人と遊ぶ時間もなく、気がつけば「大学に通っている」というよりも「介護の合間に大学に行っている」状態になっていました。


「いっそ死んだ方がお互い楽なんじゃないか」

父が帰ってきて2ヶ月くらい経った頃のことです。

収入源は父の傷病手当金だけ。しかしそれも期限付きです。私のアルバイト代は微々たるもので、医療費は予想外に高額。生活費が足りなくなり、私たちは借金をしてどうにか回していました。

ある夜、大学の授業とアルバイトを終えて家に帰ると、父がいつものようにベッドの上で私の顔を見て泣いていました。母は「泣かないで」と声をかけながら、自分もギリギリの表情をしていました。

家の中はとにかく重い空気に包まれていました。音というより、“静かな圧迫感”と言った方が近いかもしれません。誰も声を上げないのに、空間そのものが「限界だ」と叫んでいるような、あの感覚。

その圧迫感の中で、ふと頭をよぎった言葉がありました。

「いっそ死んだ方がお互い楽なんじゃないか」

自分でも信じられませんでした。でも、確かにそう考えてしまったのです。

誰にも言えませんでした。こんなことを口にしたら、自分は人間として終わりだと思ったから。

でも、あの時の自分を今振り返ると、あれは「もう限界です」という心のSOSだったんだと思います。


「施設に入れれば?」——選べなかった理由

周囲からは「施設に入れるという選択肢もあるよ」と言われたこともありました。

正直、何度も考えました。でも、私たちはその選択を取りませんでした。

理由は二つです。

一つは、「他人に任せられない、目の届く範囲にいてほしい」という感情。

父はもう喋れない。自分の意思を伝えることもほとんどできない。そんな状態の父を知らない人に預けて、何かあった時に気づけなかったらどうしよう——そういう不安がどうしても拭えませんでした。

もう一つは、お金の問題

施設も意外と高いんです。特に要介護5の父が入れるような施設は月額でかなりの費用がかかります。今の生活費すら借金で回しているのに、施設の費用なんて到底払えない。

だったら家で診よう。母と二人、なんとか自分たちで支えよう。

そう結論を出しました。

でも「自分たちで支える」と決めたその覚悟が、同時に逃げ道を完全に塞いでしまったことにも気づいていました。


絶対に口に出せなかった「矛盾した本音」

在宅介護を続ける日々の中で、いくつもの矛盾した感情がぐるぐると渦巻いていました。

  • なんで自分がこれをやらないといけないのかという理不尽さ
  • 家族を支えなければという息子としての責任感
  • 頑張っても頑張っても明日の生活すら安定しない無力感
  • 周りの同世代が就活や遊びを謳歌する中、自分の人生だけが止まっている苛立ち

これらの感情は全部同時に存在していて、どれか一つを選ぶこともできない。「家族を支えたい」と思う自分と「もう嫌だ」と思う自分が、毎日殴り合っているような状態でした。

そして、誰にも言えませんでしたが、私の一番底にあった本音は——

「母に全部任せて、自分は安い賃貸を借りて出て行って、たまーに様子を見に来るくらいの生活がしたい」

という、逃亡への渇望でした。

今この文章を書いている時でさえ、この本音を公開することには抵抗があります。でも、同じ状況にいる誰かが「自分だけじゃない」と思えるなら、隠す意味はないと思いました。


それでも逃げ出さなかった理由

あれほど逃げたかったのに、なぜ私は家を出なかったのか。

それは、自分が離れたら母も父も生活が破綻し、「最悪の結果」が現実になると直感的に分かっていたからです。

ニュースでたまに流れてくる「介護疲れによる悲しい事件」——あれを見るたびに、「これは他人事じゃない」と血の気が引くような感覚がありました。

母は毎日疲弊していました。私が目を離したら、あのニュースがウチで起こるかもしれない。その恐怖が、頭の中に張り付いて離れませんでした。

逃げたい。でも、逃げたら終わる。

愛情だけで踏みとどまったとは言えません。正直に言えば、恐怖と責任感の方が大きかった。格好いい理由なんてどこにもなく、ただ「逃げた先の最悪を想像する恐怖」が私をギリギリのところで家に縛り付けていた。それが真実です。


限界の先で見つけた「一つの決断」

感情がどろどろに溶けきった後、ある時ふと、冷たく現実を理解する瞬間が訪れました。

「この状況は永遠に続くものなんだ」

覚悟とも諦めとも違う、不思議な感覚でした。

ただ、「もう変わらない」と認めた瞬間に、不思議と思考がクリアになったのを覚えています。感情で動くのをやめ、頭を切り替えました。

「変えられないことは受け入れる。変えられることだけに全力を注ぐ」

そう決めて、私が最優先に置いたのは「お金」でした。介護の負担は変わらない。でも、お金の問題だけは自分の行動で変えられる。

私が下した決断は極端でした。

  • 通っていた大学を辞める
  • 当時やっていた仕事を辞める
  • 「収入効率の高い仕事」にすべてを振り切る

正直、諦めに近い「強い決意」でした。大学を辞めるのは悔しかった。でも、今の生活では大学に通う意味すらなくなっていた。出席もままならず、単位も取れず、「大学生」という肩書きだけを惰性で持ち続けている状態でした。

当時やっていた仕事も問題でした。拘束時間が長い割に給料が安く、時間換算すると時給1,000円を切ることもありました。しかも勤務時間がバラバラで、泊まり込みになることもあり、数日間家を空けて母に父の介護を全部任せてしまうこともありました。

全部変える。

そう決めて、私が新しく選んだのが「重度訪問介護の夜勤専従」という仕事でした。


重度訪問介護の夜勤が、すべてを変えた

重度訪問介護とは、重度な障害を持つ方の自宅に訪問し、日常生活を支援する仕事です。私はその中でも夜勤専従——夜間帯だけを担当する働き方を選びました。

この選択が、私の生活を根本から変えました。

まず、収入。

前の仕事は拘束時間に対して時給1,000円を切ることもあった。夜勤の介護は時給が約1,800円。これだけでも倍近い差がありました。

次に、時間。

夜勤は勤務時間がきっちり決まっています。夜に出勤し、朝に帰ってくる。前の仕事のように「今日は泊まりになるかも」という不確定さがなくなりました。

そして、父の介護との両立。

夜に働き、朝帰ってきてから昼間は父の介護を手伝い、夕方に少し寝て、また夜に出勤する。きつい生活ではありますが、毎日のルーティーンに組み込めるようになりました。前の仕事では数日間家を空けることがあり、その間母一人に父の介護を任せてしまっていた。それがなくなっただけでも、母の負担は目に見えて軽くなりました。

働き始めて数ヶ月で、はっきりと生活が楽になるのを実感しました。

借金のプレッシャーが徐々に和らぎ、食費を削る必要がなくなり、母の表情が少しだけ柔らかくなった。

これは「自分の夢(大学)の諦め」と引き換えにしたものです。

でも、同時に家族を守るための、私なりの「強い決意」でもありました。


救われた瞬間

ある休日のことです。

いつものように父のベッドの横にいると、父が泣きながら左手を伸ばしてきました。握手を求めているのです。握ると、力強く握り返してくる。

そして、言語障害でほとんど言葉が出ない父が、かすかに——本当にかろうじて聞こえるレベルで——「ありがとう」と言ったのです。

その瞬間、胸の奥で何かが弾けました。

「ああ、この苦しさの全部が父のせいだと思っていたけど、自分の『なんとかしなきゃ』『もっと頑張らなきゃ』という考え方が、自分自身を追い詰めていた部分もあったのかもしれない」

父は父で、動けない体で、話せない口で、必死に「ありがとう」を伝えようとしていた。

私はその気持ちを受け取る余裕すらなくなっていたのだと気づきました。

また、重度訪問介護の仕事を始めたことで、大きな気づきがありました。

この業界には、私と同じように家族の介護をしながら働いている人がたくさんいたのです。「自分だけが特別に不幸だ」と思い込んでいた殻が、静かに剥がれていきました。

さらに、仕事を通じて介護の専門知識が自然と身についていったことも、私にとっては大きな支えになりました。父の介護が「手探りの不安」から「知識に基づいたケア」に変わっていく感覚。それだけで、気持ちの余裕がまるで違いました。

今ならはっきりと言えます。

大学を辞め、仕事を変えたあの日の決断は——「正しかった」と。


介護と生活の両立に限界を感じている方へ

今、ご家族の介護で「逃げ出したい」「楽になりたい」と思っている方。

その感情は、決して異常ではありません。

私もそうでした。「いっそ死んだ方が楽だ」とまで考えた人間が言っているのだから、間違いありません。

ただ、あの日々を経て一つだけ確信していることがあります。

状況を変えるのは精神論でも根性でもなく、「環境(特に仕事と収入)」を変えることが最良の特効薬だということです。

私はたまたま「夜勤専従の介護職」という働き方が自分の状況にぴったりはまりました。介護業界はシフトの融通が利きやすく、私のように家族の介護をしながら働いている人が驚くほどたくさんいます。

今の働き方で介護との両立に限界を感じているなら、絶対に一人で抱え込まないでください。

「自分と家族の生活を守れる職場への転職」という選択肢を、早めに検討してみることをおすすめします。

施設に入れるか在宅で介護するか、仕事を続けるか辞めるか——正解は人それぞれです。

でも、「我慢し続けること」だけは正解ではないと、身をもって学びました。

私の体験が、今、暗闇の中で戦っている誰かの希望になれば幸いです。


ひとりで抱え込まないでください

もし今、あなたが当時の私のように「消えてしまいたい」とまで感じているなら、どうか一人で抱えないでください。あなたの話を聞いてくれる窓口があります。

  • よりそいホットライン:0120-279-338(24時間・通話無料/どんな悩みでも)
  • こころの健康相談統一ダイヤル:0570-064-556(お住まいの自治体の相談窓口につながります)
  • 地域包括支援センター:介護の負担やサービスの相談ができます(「お住まいの市区町村名+地域包括支援センター」で検索)

そして、もし「働き方や環境を変えることで、この状況を変えたい」と思えたら——かつての私がそうしたように、介護と両立しやすい仕事を探すことも、現実的な選択肢のひとつです。

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この記事を書いた人

重度訪問介護の現役夜勤ヘルパー(神戸)。父(要介護5・右半身麻痺・言語障害)を3年間在宅介護した経験から、ドローンスクール運営会社を退職し2024年4月に介護業界へ転身。介護職3年目の今は、重度訪問介護と地域包括ケア病棟の両方で勤務し、入院から在宅復帰までの全プロセスを現場で見ている。前職でDX化(人件費60%削減)を手がけた経験を活かし、介護現場の自動化・ロボット導入の可能性を追求中。2027年4月、神戸・芦屋エリアで独立し訪問介護事業所を開業予定。

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